Golf G.O.A.T. vol.1
-Lee Elderとその軌跡-
1974年4月21日、Lee Elderはフロリダ州ペンサコーラのモンサントオープンで優勝した。これはエルダーの PGAツアーキャリア初勝利となった。 さらに重要なことは、この勝利によりエルダーは 1975 年のマスターズ出場権を獲得し、オーガスタでプレーする最初のアフリカ系アメリカ人となった。
Lee Elderとは?
Lee Elderは 1934 年にダラスで 8 人兄弟の末っ子として生まれた。 彼が7歳のとき、父親は第二次世界大戦で戦死し、その3か月後に母親も亡くなった。 エルダーのゴルフにおける最初の仕事は、地元のゴルフ場で流れ球を拾うことであった (当時彼は小さすぎてバッグを運ぶことができなかった)。初めて18ホールラウンドをプレイしたのは16歳になってからだった。
Elderはゲームに磨きをかけ、所謂ハスラー (賭けゴルファー) になった。 彼は最終的に伝説のゴルフハスラー、Titanic Thompsonとして知られるAlvin Thomasと知り合うことになる。 彼は全国の裕福なカントリークラブのメンバーから賭けゴルフで生計を立てており、Elderは彼と共に賭けゴルフに興じた。そんな経験を経てElderは1961年にUnited GOlf Association Tourに参加した。PGA ツアーではまだ正式に「白人限定」条項があったため、このツアーは黒人ゴルファー向けのツアーであった。Elderはそのツアーで圧倒的な強さを発揮し、22のトーナメント中18の大会で優勝した。 しかし、賞金は決して高額ではなく、500ドル台になることも多かった。
PGA ツアーは 60 年代初頭に正式に「白人限定」条項を撤廃したが、Elderが Q スクール (ツアープロ認定試験) に通うのに十分なお金を稼ぐには1967 年までかかった。 彼は122人中9位でフィニッシュし、1968年のツアーカードを獲得した。ルーキーシーズンは賞金ランキング40位で終わったが、全国テレビで放映されたファイアストンでのアメリカンゴルフクラシック、プレーオフの5ホール目でJack Nicklausに負けたことで注目を集めた。
1974年モンサントオープン
1974年4月までに、Elderは準優勝を5回経験したが、一度も優勝を収めていなかった。Elderのこれまでのモンサント・オープンでの経験は決して楽しいものではなかったー、1968年にルーキーだったElderや他の黒人選手は駐車場で着替えを強いられた。 更にペンサコーラ・カントリー・クラブの会員は、黒人のクラブハウスへの入場を拒否した。
しかし、1974 年のモンサントはまったく異なる結果となった。 Elderは最初の3ラウンドで67-69-71のスコアを叩き出す。 これにより、彼は首位のPeter Oosterhuisに2打差で最終組み合わせに浮上。 最終ラウンドではElderが2度リードを奪ったが、16ホール時点ではOosterhuisに2打差に戻された。
Elderが17ホールをバーディーして1打差以内に迫ったが、18番ではティーショットを木に突っ込んでしまった。当時の新聞記事によると、その後Elderは「木の周りから奇跡的なアプローチをかけて」カップから1.5メートル以内につけたという。 Oosterhuisがパーを目指して奮闘する一方、エルダーはバーディパットを沈めてプレーオフに持ち込んだ。
Oosterhuisは、優勝を決めるプレーオフの最初のホールで1メーター以内のパットを外し、 2番ホールでも1.2メーターのバーディパットを外す。 パーの後、Oosterhuisは 4 ホール目のアプローチを 6メートル以内につける。 その後 ElderのアプローチはOosterhuisよりも60センチほどカップに近い同じライン上につける。
そして最終パット。Oosterhuisは失敗したが、Elderは5メートル以上のパットを沈め初勝利を記録した。
関係者らはトロフィーの授与のためにElderをすぐにクラブハウスに押し込んだ。その理由は、 警察がその日の早い時間にElderに対する殺害脅迫の通知を受け取ったからであり、式典は屋内に移された。奇しくも、そこは6年前にElderが立ち入りを禁止されたクラブハウスであった。